俳句も名人の域に達せられている松永様ですがゴルフでも素晴らしいプレヤーでこの度二度のホール・イン・ワンのレポート頂きました。軽快な文章は流石ですのでご一読ください。伊藤
ホール・ イン・ワン 松永巌様
昭和32年(1957年)29歳の時に始めたゴルフ。2018年末に止める迄、61年間の長きに亘り楽しんだ。 国内は勿論、海外のコースも数多くプレーをした。
そして、中々達成出来ないというホール・イン・ワン(米国ではHole Out in Oneという)を二回経験した。
最初は米国シカゴに滞在中の1978年5月29日(日曜日)。家内と二人で全くのプライベートでのプレー。愛用の白と緑のツートンカラーのサンダーバードを駆使し、シカゴ市内から南へ30分程度走り、リンカーン・シャイアCCというパブリックコースに着いた。到着順に4名1組になってスタートすることになっており若いカップルと一緒であった。
男性はレイ、女性はロビンと言った。それぞれ二人で一台のカートに乗って出発した。プレーは順調に進み、17番ホールを終えて、最終18番ホールに向かった。途中に小さなせせらぎがあり、誰かのボールが一個水に浸っていた。カートを止めて拾い上げて見たらまだ新しいスポルディングのプロフライトであった。次のホールでこれを使ってやろうと思い、そのボールを持ってティーグラウンドに立った。
距離は170ヤード。グリーンは少し高くなっており、面は見えないが、フラッグは見えていた。若い二人と家内を先に打たせ、私が最後に打つことにした。170ヤードは風が無ければアイアンの4番で打つのが通例でその時も何も考えずバックから4番を抜いた。拾ったボールをティアップして打った!ナイスショットの手ごたえ、ボールは真っすぐピンの方へ飛んだ。先に打った二人がグリーンの面の見える処にいて「ホールアウト・イン・ワン!と大きな声で叫んでいた。家内も「入ったらしいですよ」と言っていた。
半信半疑でグリーンに行って見た。本当に入っていた。初めての経験であったがそれ程の感激は無かった。 それは日本人は家内しか居なかったからだと思う。このことがシカゴの日本人社会に知れたら大騒ぎになる事は間違いないので家内には厳重に口止めした。
プレーが済んでフロントに話したが、何んのお祝いも記念品も無いと言う。米国ではホール・イン・ワンなど日常茶飯事で騒ぐことでもないと知った。 レストランに行って例の二人とテーブルを同じくし、奢ってくれたビールをご馳走になり、スコアカードに証人として二人のサインもらって別れた。
二回目は日本で、平成3年(1991年)2月24日(日)、ホームコース の横浜CCであった。クラブコンペではなかったがメンバーの顔見知りの連中と一緒の組でその日は天気晴朗なれど西高東低の冬型の気圧配置が崩れ、南南東の強い風。西コース3番の有名な池越えの170ヤードのショートホール。ティーはフルバック、グリーンはベントでピンは大奥。南南東の風は左側からの強烈なアゲンスト。普通なら4番アイアンの処だがその日の風ではとても届きそうもなく、6番ウッドを持ったが考え直して5番ウッドに持ち替えてティーグランドに立った。左からの風を意識して左の高麗グリーンの方向へ。ナイスショットの手応え!フェード系(右へ曲がっていく)のボールが風に押されてピンの方向へ飛んで行くのが見えた。落下地点は確認出来なかったがグリーンサイドの前の組の人達から歓声が上がった。「ホール・イン・ワン!!」の声が聞こえた。暫し茫然!!一緒の組の誰かの「ホール・イン・ワンですよ」の声に我に帰った。「嬉しい!」と言うより「大変だ!」と言うのが実感だった。
ボールを拾わずに待って居てくれた前の組の祝福を受け、自分自身で拾い上げた。アトラス・キャリードの6番だった。ピンの手前1メートル位に落ち、転がってピンに当たって入ったとの事である。この時のスコアはアウト44、IN46でハンディ9の私には良くなかった。
幸い保険に入っていて、最高額の50万円が手に入った。後日このホールの写真を撮りこれを用いてテレホンカード500枚作ったり、同じ組や前の組の人にお礼をしたり、キャディーに寸志をあげたりして散財。日本では大変なことなのである。横浜CCからは記念品とボールを飾るスタンドを貰った。スタンドはもう一つ同じ物を手に入れ米国でのボールも一緒に飾っている。テレホンカードを送った人達から祝福とお礼の手紙を沢山頂き、今でも大切にしているが、亡くなられた方も多くなった。
(2019年4月3日著)